「主の祈り」は、神の前に人としてのあり方を整え、立つべきところに立たせるものです。
日ごとの糧を求める祈りにおいて、私たちの存在の弱さを知りました。また、罪の赦しを求める祈りにおいて、神の赦しがなければ生きることができない私たちの弱さを知ります。更に、「試みに会わせず」との祈りにおいて、悪しき者(悪魔)に対する私たち人間の無力さを知ります。
「試み」という言葉は、聖書では、誘惑または試練のどちらにも訳される、同じ用語です。
試練は、私たちを信仰の確立と成熟に導きますが、誘惑は罪と滅びへと引き寄せます。試みは神の真実に従って生きるか、悪魔と肉に従って生きるかの戦いをもたらします。
そして、私たちは自分の力でこの悪しき者に勝つことはできません。それ故に祈るのです。
肉体を持たれた主イエスは、私たちがどんなに誘惑に屈し易いかを良くご存知です。なぜなら、主イエスご自身も私たちに先立って試みを受け、苦しまれたからです。それ故、主イエスは、私たちのための大祭司として、時宜に適った助けを与えるために、父なる神に対して昼も夜も生きてとりなしていて下さるのです。
また、聖霊は私たちの内にいてくださって、肉(欲求など)と悪魔に対して勝たせて下さいます。
さらにこの祈りは、愛する人々を担いつつ、やがて全世界に臨もうとする経験したことのない試み(「ヨハネの黙示録」に記載されている終末のことがら)からの救いを求める終末論的な祈りでもあります。