故大江寛人牧師著、「そこんとこよろしく」を全掲載
教会の集会で、いろんな人の救いの証を聞きます。劇的な証を聞いたりすると、「自分にはそんな体験がないな」と思って、落ち込んでしまいます。どうしたらよいのでしょうか。
信仰を持ち始めた頃、人が「さんざん悪いことをしたが、赦されました」とか、「酒がぷっつりいらなくなりました」なんて証するのを聞きますと、「やれ、しまった。悪いことをしてなくて損しちゃった。お酒をじゃんじゃん飲んどくんだった」とちょっぴり後悔したものでした。私の改心なんて、なにしろクリスチャン家庭に育ったものですから、ドラマもなければ感動もなかったからです。
しかし、救われた境地というものは、同じ平面にいるわけで、深い穴蔵から上がってきた者と、浅い水たまりから上がってきた者とが並んで座っているようなものです。深い穴蔵から上がるには大変な苦労(恵み)があったことでしょうが、だからといって、いま神さまから受けている接待に、差があるわけではありません。
信仰なんて、救われてからが勝負なのです。スタートラインに着くまでに、悪いことをした、といっても、まだ死刑になったわけじゃないし、生きている以上、大したことはしていません。また本当に大変なことをしていたのなら、簡単にはしゃべれないものです。
どこから出てきたかが問題ではなく、これからの信仰の生涯を、どのように歩んでいくかが問題なのです。イエスさまも、「うしろを見る者は、神の国にふさわしくありません」(ルカによる福音書 9章62節)といわれたではありませんか。人の素晴らしい証を聞いたら、拍手をしてあげなさい。あなたも今日まで守られてきたのですし、これからは一緒に、一歩一歩手をたずさえて御国に上っていく仲間なのですから。
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