故大江寛人牧師著、「そこんとこよろしく」を全掲載
賜物と才能についてお聞きします。この2つは同じなのでしょうか。それとも、全く別のものなのでしょうか。
「賜物」と「才能」とはよく似ています。比較してみましょう。まず呼び方。「賜物」は神さまからもらったもの、というニュアンスで、やっぱり価値あるものにだけしか使わない言葉のようです。たとえば、泥棒の素晴らしい技術を「才能」と呼びますが、「賜物」とは言いません。
次に、使い方。「賜物」は神様のために用います。「才能」は自分のために、広く言えば、人間のために役立てるものです。
発見の仕方も違います。「才能」は育てられて、役に立つようになります。「天才は、1パーセントの才能と99パーセントの努力である」と言われています。ですから私たちにも、まだ隠れた才能が眠っているかもしれません。
「賜物」のほうは、ある日突然私たちの生活の営み(この中には才能も含まれます)が、神さまとの関係において、「賜物であった」と認識されることが多いようです。それも自分で、ではなく他人から。
たとえば、牧師はだれも説教で苦労しているわけですが、「先生は説教の賜物をいただいているのですね」などと信徒のほうから言われると、びっくりしてしまいます。こちらは「零パーセントの才能と百パーセントの努力」とで営々と苦労していますのに、喜ぶべきでしょうか。照れくさいですね。
最後に、神さまからの「賜物」は生涯、変わりません(ローマ人への手紙、11章29節)。それは神さまが、私を認めてくださった「しるし」として、神さまの側で記念として与えてくださったものだからです。
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