故大江寛人牧師著、「そこんとこよろしく」を全掲載
「祈っていると、主の素晴らしい臨在を感じます」という方がいますが、私は何も感じないのですが。
放送、というのは私の苦手とするところです。だれもいないところで「さあ、みなさん」と、マイクに向かって話しかけるのは変なものですよ。ところが数日たって、「先生、聞きました」なんて挨拶される。マイクの向こうに利き手を実感できなくても、聞き手はちゃんといるのですね。
先日、放送伝道をしている友人に尋ねました。「どうしたらあんなに旨く言葉が出てくるんだ」。彼いわく、「ラレー(聴取者との集い)で会った大勢の人の顔を、マイクの向こうに思い浮かべるんだよ」と。
祈りと臨在の関係も同じようなことではないかと思います。臨在なんて感じる、感じないは個人差の問題で、お祈りは、確かに聞いてくださる方が折られます。あなたの感情がお祈りを決めるのではなく、聞いてきてくださる方があなたのお祈りを決めるのです。
「臨在を感じる」人がいるのは事実です。臨在を感じるだけではなく、手足にイエスの傷、つまり十字架にかけられたときの傷が現れた人もいるのです。しかしそれは、その人にそういう賜物が与えられていたにすぎません。他人が持っている特別な能力をいちいち羨ましがっては、これからの長いクリスチャン生涯、大変ですよ。
「あなたは感じるから祈るか。感じなくても祈れるものは幸いなり」とイエスさまがおっしゃった(?)ことを聞きませんでしたか。どうぞ祈れないものではなく、祈るものになってください。
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