故大江寛人牧師著、「そこんとこよろしく」を全掲載
洗礼を受けたときは、とても大きな感動があったのですが、最近は感動が薄れています。ときどき、本当に自分は救われているのだろうかと、疑ってしまうこともあります。救われているのを証明するものが何かないでしょうか。
何もありません。これじゃ回答になりませんね。
イエスさまがトマスに「見ずに信じる者は幸いです」(ヨハネ20・29)と言われましたが、この「見る」というのは目で見ることだけでなく、五感で感じることすべてを言っているのです。だからトマスに「さわってみよ」と言われたのです。
これは五感を基礎に信仰を判断してはいけない、と教えられたことなのです。
現代は何でもかんでも、「感じ」ることがいちばん大切な時代です。自分の感性を尊重するのはよいことですが、相手のすることまで自分の「フィーリング」で決めてしまうのはおかしな話です。救いは、私たちが感じたから成就したのではなく、向こう側で、イエスさまの側で成就したのです。
しかし、五感を超えての証明という話なら、ないわけではありません。
私は最近不思議に思うのです。クリスチャンになる前、困ったときや悲しいときに、私はどうしていたのか思い出せないのです。いまならすぐに祈ります。この、いまの生活から祈りを取り去る、そんな生活があったことが、不思議なのです。
使徒パウロは、「イエスを呪え」と言われても、どうしても呪うことができない、それは御霊が働いておられるからだ、と言いました。(Iコリント12・3)
私たちにいま、「祈るな。祈ることを禁じる」と言われたとしても、私たちは祈ってしまう。言葉にしなくても、手を組まなくても、祈ってしまう。祈りのない生活なんて考えられません。これが救われている証明なのだ、と思うのです。
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