故大江寛人牧師著、「そこんとこよろしく」を全掲載
先輩のクリスチャンが、よく「示された」とか「みこころだ」とか言うのですが、私にはぴんと来ないし、よくわかりません。どんな体験なのか、具体的に教えてください。
このほかに、「お導きです」「与えられました」などというのを聞きます。多くの場合、反対論を封じるための方便だと思ってください。しかし、偽物があるということは本物もあるとの証拠ですから、一概に茶化してしまうこともできますまい。
これらの言葉を使うのなら、まず自己犠牲の決断が必要です。犠牲を覚悟せずに「みこころです」と言うべきではありません。結果が自分に不利であるとわかっていても、神さまのため、他人のために踏み出していくときに用いる言葉です。
次に、だれか、第三者がそれによって恵まれるのでなくてはなりません。利害関係のない第三者が、です。利害関係のあるだれかのためなら、私たちは喜んで犠牲を払います。しかしそれは「私の願い」であっても、「主の導き」だとは言えない場合もあるでしょう。
最後に、それらの行為によって称賛されるのは「主のみ」であるべきです。悪くしても第三者であって、間違っても本人の名前が崇められてはなりません。もし自分のためにそう言う人がいたら、それは「偽者だ」と思います。
日常生活において、主に示され、導かれることはしばしばあるでしょう。しかし、それを自覚したり、公言しなければならないことはそうあるわけではありません。
もし、あなたが無視され、しかもあなたの犠牲が求められ、それによって主がほめたたえられるような事態に踏み込まねばならなくたったとき、祈りの中で「アーメン」と受けていただきたい。これが、この言葉の重みです。
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