故大江寛人牧師著、「そこんとこよろしく」を全掲載
「情欲をいだいて女を見る者は、心の中で姦淫を犯した」とありますが、これが罪なら、僕は毎日罪を犯していることになります。僕はだめなクリスチャンでしょうか。
聖書は信仰と生活の規範です。この「規範」を「到達すべき目標」の意味に解釈してはいませんか。そうすると聖書は律法の集まりになり、信仰生活は努力、努力の積み重ねになってしまいます。
「規範」の意味はプラスに働くのではなく、マイナスを明らかにする基準、すなわち聖書に照らして、「ああ、これも駄目、あれもできていなかった」と、私たちの罪人であること、その不完全さを暴くように働く基準のこと、ではないかと思います。
こうしてみると、私たちの中で、聖書に照らしてみて、「完全だ」と言える人はだれもいなくなります。まさに、「義人はいない。ひとりもいない」(ローマの信徒への手紙3章10節)と書いてあることが明らかになるのです。こんな、私やあなたのような罪人を救うために、「キリスト・イエスはこの世に来られた」(テモテへの手紙第1、1章15節)のです。そして、罪が明らかになればなるほど、恵みも確かなものになる(ローマの信徒への手紙 5章20節)わけですから、私たちは慰められます。
「情欲をいだいて女を見る」と言われますか。素晴らしいことだと思います。ある場合、これは人間の、特に若者の正常な状態ということができます。もし、若くても性的衝動を内部に感じることがなかったならば、私たちは、結婚をし、子どもを産むという行為ができないかもしれません。ですから、これらの衝動は神さまからの特別な恵み、を考えることができます。そこで使徒パウロは、この恵みをきちんとコントロールするようにと(コリントの信徒への手紙 第1、7章)勧めています。
問題なのは、これを真面目に取り扱おうとせず、遊びにしてしまう人たちです。イエスさまはここで、そのような人たちを告発しているのでしょう。
↑PAGE TOP